量子力学入門③:解釈論争と猫のパラドックス

量子力学

原子の謎を解き明かすために生まれた量子力学は、ボーアの量子仮説、物質波、そして不確定性原理によって、揺るぎない「新しい物理学」として確立されました。
この理論は、水素原子のスペクトルから半導体の性質まで、ミクロな世界の現象を驚異的な精度で予測することができました。

しかし、この理論が提起した「波動関数 \(\psi\) は何を意味するのか?」、「観測とは何なのか?」という問いは、確立後も長らく物理学者たちを悩ませ続けました。

特に、アルベルト・アインシュタインは、量子力学が「不完全な理論」であると批判し、ニールス・ボーアとの間で、「神はサイコロを振らない」という言葉に象徴される、物理学史上最大の論争を繰り広げました。

本記事『量子力学入門③』では、この「解釈論争」の全貌を辿ります。
そして、量子力学の奇妙な確率の世界を、日常的なマクロ世界にまで拡張することで、その本質的な問題点を明らかにしたシュレーディンガーの「猫のパラドックス」について解説します。

第1章:コペンハーゲン解釈:ボーアと確率の支配

不確定性原理が確立された後、ニールス・ボーアを中心に、ハイゼンベルク、ボルンらがコペンハーゲン(デンマーク)で議論を重ね、量子力学の「標準的な解釈」を作り上げました。
これが「コペンハーゲン解釈」で、量子力学の数学的構造を、観測される物理的世界と結びつける哲学的なルールとなりました。

①-1. 量子の不連続性と相補性原理

コペンハーゲン解釈の核心の一つは、「量子の不連続性」と、ボーアが提唱した「相補性そうほせい原理」にあります。

  • 量子の不連続性: 電子などのミクロな粒子は、定常状態(量子状態)の間を連続的に移動するのではなく、ジャンプ(量子跳躍)によって不連続に移動します。この不連続なプロセスは、古典的な因果律(原因と結果の連続性)から外れています。
  • 相補性原理: 量子現象は、「粒子的な側面」「波動的な側面」という、互いに排他的(両立しない)な二つの描像によってのみ完全に記述できる、とされます。どちらの描像が現れるかは、観測装置のセットアップに依存します。例えば、電子は「波」として同時に存在する複数の経路を通ることもあれば、「粒子」として特定の経路を通ることもありますが、これらを同時に観測することは不可能です。

①-2. 波動関数の実体と「観測問題」

コペンハーゲン解釈において、最も重要で、最も論争を呼んだのが、波動関数 \(\psi\) の実体と、観測行為の役割に関する定義です。

  • 波動関数 \(\psi\): \(\psi\) は、粒子が観測される「可能性」を記述する単なる数学的な道具であり、粒子そのものの物理的な広がり(実在)ではないと解釈されます。
  • 重ね合わせの状態: 観測が行われる前、粒子は複数の可能な状態(例:スピンが上向きと下向き)が共存する「重ね合わせの状態」にあります。
  • 波動関数の収縮: 観測者が測定を行った瞬間、重ね合わせの状態は不連続に崩壊し、粒子はただ一つの確定した状態(例:スピンが上向き)に落ち着きます。これを「波動関数の収縮(Collapse)」と呼びます。

この「収縮」は、観測者の意識や測定装置が、ミクロな現象を決定するという、古典物理学では考えられなかった「観測問題」を生み出しました。

第2章:アインシュタインの反論「神はサイコロを振らない」

コペンハーゲン解釈は量子力学の予測を可能にしましたが、その哲学的な前提は、生涯「実在」と「因果律」を信じてきたアルベルト・アインシュタインにとっては受け入れがたいものでした。
彼は、量子力学の核心である確率論と非局所性に強く異議を唱え、物理学史上最も有名な論争を引き起こしました。

②-1. 「神はサイコロを振らない」の真意

アインシュタインの量子力学に対する批判は、彼の有名な言葉「神はサイコロを振らない(Gott würfelt nicht)」に集約されます。

  • 批判の核心: 彼は、量子力学が「確率」によって現象を記述するのは、理論が不完全だからだと主張しました。アインシュタインにとって、真の物理法則は、測定を行う前から粒子の位置や運動量といった物理量が確定した値(実在)を持つ「決定論」であるべきでした。
  • 古典的な理想: 古典物理学と同様に、ミクロな粒子も測定とは無関係に客観的な実在を持つはずであり、もし確率しか計算できないのであれば、それは理論がまだ「隠された変数」を見つけていないためだと考えました。
  • ボーアの反論: ボーアはこれに対し、ミクロな世界には客観的な実在などなく、観測によって初めて実在が「作り出される」のであり、量子論は完全な理論であると反論しました。

②-2. EPRパラドックス:量子力学の「不完全性」批判

アインシュタインは1935年、ボリス・ポドルスキー、ネイサン・ローゼンと共に「EPRパラドックス」として知られる思考実験を発表しました。
これは、量子力学の理論的枠組みが矛盾を内包するか、さもなければ不完全であることを示すことを目的としていました。

②-2-1. EPRパラドックスの構造

  1. 二つの粒子の相関: 二つの粒子AとBを生成し、遠く離れた場所に送り出します。この二つの粒子は、「量子もつれ(エンタングルメント)」と呼ばれる特殊な相関を持っています。
  2. 非局所的な影響: 粒子Aが非常に遠い場所で観測され、その状態(例:スピンが上向き)が確定した瞬間、光速を超えて粒子Bの状態(例:スピンが下向き)も瞬時に確定します。
  3. アインシュタインの結論: 情報を光速を超えて伝達することは特殊相対性理論に反します(非局所性)。この奇妙な現象は、粒子Aを観測する前に、すでに粒子Bの状態が隠れた変数によって決まっていた、つまり量子力学が不完全であることの証拠であると結論づけました。

このEPRパラドックスは、「実在性」「局所性」「完全性」というアインシュタインが信じる古典的物理学の根幹を、量子力学が脅かしていることを明確に示した、歴史的な挑戦状となりました。

第3章:量子論の核心:猫と非局所性の証明

第2章で、アインシュタインが「量子力学は不完全な理論である」としてEPRパラドックスという挑戦状を突きつけたところまで解説しました。
しかし、この論争はアインシュタインの生前には決着がつきませんでした。

この章では、この論争の決着と、量子論の奇妙さを象徴する思考実験について解説します。

③-1. シュレーディンガーの猫:マクロ世界への拡張

1935年、エルヴィン・シュレーディンガーは、EPR論文と同じ年に、コペンハーゲン解釈の「観測問題」と「重ね合わせの状態」が持つ不条理さを指摘するため、有名な「猫のパラドックス」という思考実験を提案しました。

シュレーディンガーの猫は、思考実験であり、実際に猫を使って行われた実験ではありません。

コペンハーゲン解釈の論理的な帰結がどれほど奇妙なものになるかを強調するために作られた、比喩的な実験であると言えます。

③-1-1. 猫のパラドックスの構造

  1. 密閉された箱: 箱の中に、猫、放射性物質(50%の確率で崩壊する)、ガイガーカウンター、毒ガス発生装置を入れ、密閉します。
  2. 重ね合わせの導入: 放射性物質が崩壊するかどうかは、観測されるまで「崩壊した状態」と「崩壊しなかった状態」の重ね合わせにあります。
  3. マクロな重ね合わせ: このミクロな粒子の重ね合わせに連動し、毒ガスが発生するかどうかも重ね合わせになるため、箱の中の猫も「生きている状態」と「死んでいる状態」の重ね合わせに陥っていることになります。
  4. 不条理な結論: コペンハーゲン解釈に従うと、観測者(人間)が箱を開けて見るまで、猫は生と死が同時に存在するという、日常的な感覚と矛盾する不条理な状態にあることになります。

シュレーディンガーは、この思考実験によって、「観測」の役割「波動関数の収縮」という概念が、ミクロな世界とマクロな世界の間でどのように作用するのかという、解釈上の根本的な問題(観測問題)を浮き彫りにしました。

つまり、観測者が結果を「知る」タイミングではなく、「観測する」という行為そのものが、不条理な重ね合わせの状態をどのようにして確定した実在(結果)に変えるのか、という観測の問題点を突いたのです。

③-2. ベルの不等式とアスペの実験:論争の終結

アインシュタインとボーアの論争は、長らく哲学的な水掛け論に留まっていましたが、1964年、物理学者ジョン・ベルが発表した「ベルの不等式」により、初めて実験で検証可能な道筋が立ちました。
そして1982年、アスペの実験によってその道筋が実行され、最終的な決着がつくことになりました。

  • 不等式の役割: ベルの不等式は、アインシュタインが信じる「局所実在論」(隠れた変数理論)が正しい場合に、粒子の測定結果の相関が満たすべき数学的な限界を示しました。
  • アスペの実験: 1982年、フランスの物理学者アラン・アスペは、実際に量子もつれにある粒子ペアを使い、ベルの不等式を検証する実験を行いました。
  • 決定的な結果: アスペの実験結果は、ベルの不等式を破ったことを示しました。これは、アインシュタインが主張した「局所実在論」は成り立たないことを意味します。

この実験により、量子もつれの粒子間で生じる「非局所的な相関」(光速を超えた瞬時の結びつき)は、量子力学の予測通り実在することが確定しました。
アインシュタインの批判は退けられ、量子力学は奇妙だが完全な理論であることが証明されたのです。

まとめ

本記事『量子力学入門③』では、確立された量子力学の理論が提起した哲学的な問いと、それに対する物理学史上最大の論争を辿りました。

この論争を通じて、私たちは量子力学の予測だけでなく、その根底にある世界観を理解することができました。

主要な論点を以下にまとめます。

  1. コペンハーゲン解釈(ボーア):
    • 前提: 観測以前に、粒子の状態は複数の可能性が共存する「重ね合わせ」にある。
    • 観測の役割: 観測行為がなされた瞬間に、波動関数は不連続に収縮し、状態が一つに確定する。
    • 結果: 量子論は「確率論」を受け入れ、ミクロな現象の「実在」は観測に依存するという結論に至りました。
  2. アインシュタインによる批判:
    • 主張: 量子力学は「不完全な理論」であり、「神はサイコロを振らない」と主張しました。彼は、測定とは無関係に客観的な実在(局所実在論)が存在すると信じました。
    • 思考実験: EPRパラドックスを提案し、量子力学が「非局所性」(光速を超えた影響)を予言する点を批判し、隠れた変数が存在する可能性を示唆しました。
  3. 論争の決着:
    • 猫のパラドックス: シュレーディンガーが提案したこの思考実験は、「重ね合わせ」の概念がマクロな世界に適用された場合の不条理さ(生きている猫と死んでいる猫が同時に存在する状態)を強調し、観測問題の根本的な曖昧さを浮き彫りにしました。
    • 最終結論: ベルの不等式の登場と、アスペの実験による検証により、アインシュタインの信じた「局所実在論」は成り立たないことが証明されました。量子もつれによる非局所的な相関は、実在することが確定し、量子力学は奇妙だが完全な理論であることが示されました。

哲学的な論争に終止符が打たれた今、量子力学はその奇妙さを武器に、量子情報科学という新たな分野で革命を起こし始めています。

そこで、次のステップは、この量子情報科学の基礎となる量子状態の数学的な表現と、量子計算における「ユニタリ」操作の役割を探求します。

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