ボーア模型に始まり、不確定性原理、そしてアインシュタインとの解釈論争を経て、私たちは量子力学が「確率」と「重ね合わせ」という、従来の物理学では考えられなかった奇妙な性質を持つことを確信しました。
特に、量子もつれと非局所性の実在が証明されたことで、量子論は哲学的な論争に終止符を打ち、完全な理論として確立されました。
このミクロな世界の驚くべき法則は今、量子情報科学という新たなフロンティアを開拓しています。
情報技術の限界を突破する鍵が、この量子力学の「奇妙さ」にあることが分かったのです。
本記事『量子力学入門④』では、この量子論の奇妙な性質を、工学的、数学的なフレームワークへと昇華させます。
量子情報科学の基盤となる量子状態の記述法を学び、その状態を変化させる「ユニタリ」操作が、いかにして量子コンピュータの計算を可能にしているかを探っていきましょう。
目次
第1章:量子状態の数学的表現「ヒルベルト空間」
量子力学が持つ「重ね合わせ」や「非局所性」といった奇妙な性質を、情報技術に応用する量子情報科学では、従来のコンピュータとは全く異なる数学的な枠組みが必要です。
①-1. 量子情報と量子ビット(Qubit)
古典的なコンピュータが扱う情報単位はビットです。ビットは、必ず「0」か「1」のどちらか一つの値をとります。
一方、量子コンピュータが扱う情報単位は量子ビット(Qubit)です。量子ビットは、量子力学の「重ね合わせ」の性質を利用し、「0」と「1」の状態を同時に持ちます。
- 古典ビット: \(0\) または \(1\)
- 量子ビット: \(0\) と \(1\) の重ね合わせ \(\mathbf{|\psi\rangle} = a|0\rangle + b|1\rangle\)
この重ね合わせの状態を持つことが、量子コンピュータが複数の計算を同時に実行できる、驚異的な並列計算能力の源泉となっています。
①-2. 量子状態を記述するベクトル(ヒルベルト空間)
量子力学では、粒子の状態、すなわち量子ビットの状態を、「ベクトル」を使って記述します。
- 状態ベクトル: 量子状態 \(\mathbf{|\psi\rangle}\) は、数学的には「状態ベクトル」として表現されます。ベクトルは、状態の「向き」と「大きさ」を持ちます。
- 「向き」は、0になる確率と1になる確率を決定する「重ね合わせ」状態の比率であり、状態空間上のベクトルの方向」です。つまり粒子がどの基底状態( \(|0\rangle\) または \(|1\rangle\))にどれだけの確率で存在する可能性を持つかを示します。
- 「大きさ」は、その量子状態が持つ「存在確率の総和」を意味する、状態空間上のベクトルの長さです。数学的にはノルムと呼ばれ、確率の総和を表します。この値は、粒子が「必ずどこかに存在する」という物理的な要請を満たすため、常に 1 になるように規格化されます。
- 状態 \(|0\rangle\) は \(\begin{pmatrix} 1 \\ 0 \end{pmatrix}\)、状態 \(|1\rangle\) は \(\begin{pmatrix} 0 \\ 1 \end{pmatrix}\) というベクトルで表されます。
- ヒルベルト空間: この状態ベクトルが存在する数学的な空間をヒルベルト空間と呼びます。量子力学において、物理的な状態とは、このヒルベルト空間内のベクトルそのものを意味します。
- 確率の解釈: ベクトルの各成分 (\(a\) と \(b\)) の絶対値の二乗 (\(|a|^2\) と \(|b|^2\)) は、その状態が観測される確率を意味します。このため、確率の総和は必ず \(1\) になります。
- \(\mathbf{|a|^2 + |b|^2 = 1}\)
ベクトル表現を用いることで、量子状態の複雑な振る舞いを、線形代数という明確な数学的手法で解析できるようになります。
第2章:ユニタリ操作:量子計算の数学的保証
第1章で、量子ビットの状態が「状態ベクトル」として記述されることを学びました。
量子コンピュータが行う計算、すなわち量子アルゴリズムは、この状態ベクトルを特定のルールに従って変化させる一連の「操作」に過ぎません。
この操作を数学的に保証するのがユニタリ性です。
②-1. ユニタリ性:確率の総和を保つ法則
量子状態を記述するベクトルは、その「大きさ」が常に 1(確率の総和が 1)でなければなりません。
計算の途中でこの確率が変化したり、粒子が消滅したりするような操作は、物理的に許されません。
そこで登場するのが、ユニタリ演算子(またはユニタリ行列)です。
ユニタリ性とは、『量子状態に適用されるすべての操作が、ベクトルの大きさ(ノルム)を厳密に保つという数学的な性質』であると言えます。
物理的意味としては、量子情報(状態ベクトル)を操作する際、情報が失われたり、余分な情報が加えられたりしないことを保証します。
これは、計算の可逆性(操作を元に戻せること)とも強く結びついています。
②-2. 量子ゲートとユニタリ行列
古典コンピュータにおける論理ゲート(AND, OR, NOTなど)が、量子コンピュータでは量子ゲートに相当します。
量子ゲートは、すべてユニタリ行列として表現されます。
ユニタリ行列を状態ベクトルに作用させることは、ヒルベルト空間内でベクトルの「向き」を回転させることに相当します。
これにより、計算の過程で量子ビットの状態は変化しますが、「大きさ」(確率の総和)は常に 1 に保たれます。
②-3. ブロッホ球:ユニタリ操作の可視化
量子ビットの状態は、しばしばブロッホ球と呼ばれる3次元の球面上に可視化されます。
ブロッホ球の表面上の一点が、その量子ビットの状態の「向き」(重ね合わせの比率)を表します。
- 回転操作: 量子ゲートによるユニタリ操作は、ブロッホ球上のベクトルを回転させることに対応します。
- 大きさの固定: ユニタリ操作はベクトルの大きさを変えないため、操作後のベクトルは必ずブロッホ球の表面上に留まります。
このブロッホ球を用いることで、複雑な量子計算を、幾何学的なベクトルの回転として直感的に理解できるようになります。
視覚的に確認したい方のために、量子計算におけるユニタリ演算が状態ベクトルを回転させる操作であることを示す、ブロッホ球のアニメーションを公開しています。
この操作は、ベクトルの長さを変えずに行われるため、情報が失われない可逆な計算であることを保証します。
まとめ
本記事『量子力学入門④』では、前回の記事で確立された量子力学の哲学的な世界観を、量子情報科学という応用分野の「数学的な土台」へと繋げました。
主要な論点を以下にまとめます。
- 量子状態の表現: 量子ビット(Qubit)の状態は、ヒルベルト空間と呼ばれる抽象的な空間のベクトルとして表現されます。ベクトルの「向き」が重ね合わせの比率を、「大きさ」が確率の総和(常に1)を意味します。
- ユニタリ操作の役割: 量子コンピュータが行うすべての計算(量子ゲート)は、ユニタリ行列によって実行されます。ユニタリ性は、計算の過程で確率の総和を厳密に保ち、情報が失われることのない可逆な操作であることを保証します。
- 可視化: ユニタリ操作は、ブロッホ球上の状態ベクトルを大きさを変えずに回転させる操作として視覚化でき、複雑な量子計算のプロセスを幾何学的に捉えることが可能になります。
ユニタリ性と状態ベクトルという数学的な保証は、量子コンピュータが古典コンピュータのアルゴリズムでは不可能な計算を実行するための強固なフレームワークを提供します。


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